「乱菊」 懐かしいくせに覚えているより低い声。 同じところに勤めているくせに、乱菊の記憶はどうしてだか昔に偏っている。 目の前の幼馴染についてのみ。 少年時代を共に過ごした彼の声は、声変わり直後の半端な声、その不安定な声がやけに自分を落ち着かせたのを覚えている。 今の声は、もっと安定した、大人の声。なのに、それが逆に自分を落ち着かなくさせる。 「聞こえんかったんか、乱菊?」 しゃあないな。そんな声と同時に、後ろからぎゅうっと抱きつかれて焦る。 この馬鹿は何を考えている。隊舎のすぐ外。誰かに見られてもおかしくない状況だというのに。 豊かな金髪に擦り寄るように顔を埋めた市丸ギンは、前に回した手の位置を微調整しながら首を捻った。 「あれ、なんや乱菊ちょっと太った?」 「失礼ね!何なのアンタいきなり」 「え、乱菊気付いてくれんから、こうやって触って僕やって教えてるだけやんか」 「アンタがやってんのは立派なセクハラよ!それに太ってない!」 「えー僕の知ってる乱菊は細い子だったんになぁ」 「太ってないって言ってんでしょ!胸が大きくなったのよ!」 「胸……あーこれかぁ」 「触んなっ」 ギンは乱菊の手首を掴み、自分の方を向かせてにっこり笑う。 子供の頃を彷彿とさせる微笑を向けられて、乱菊が狼狽した隙に正面からまたぎゅうと抱きついた。 「もうおっきくしたらあかんよ?狼共が狙うてる」 「アンタも同じことしてんじゃない!」 「僕は違うやんか。僕は乱菊のこと愛してるもん」 「何馬鹿言ってんの、ギン!」 「ていうかほんまこれ邪魔や。あったかくて柔くなかったら絶対取った方がええな」 「何に邪魔なのよっ取れるか!」 「んー、だって子供の頃ようやったやろ。こうやって抱き合うと、お互いの心音が聞こえてえらい気持ちよかったやんか」 あの頃はよう乱菊の方から抱きついてくれたね。 のんびりとした口調でそう言われて、金髪の美女の顔が動揺で幼くなる。 「あ……」 あの頃は、ただ、彼しかいなくて。 自分には彼しかいなくて。 すぐ傍から消えてしまう彼が怖くて。 だから、存在を確かめるかのように張り付くように抱きついた。 心臓の音が聞こえると安心したし、彼が髪をゆっくりと撫ぜてくれるのが心地良かった。 ギンの手は冷たいくせに優しいから、触られているととても安心して、良く眠れた。 「寒かったしな、今はまともな服買える金もあるし、そういう意味では僕なんかいらんかもしれんけど」 「そんなつもりじゃ」 「僕は乱菊、触りたいから」 柔らかい声に、流されそうになって乱菊は首を振った。 首の周りで陽光を受けた金色の髪が踊る。 それをじっと見る水色の目に、負けてしまいそうで、女は弱っていた。 駄目だ。ここで流されないって決めたんだ。 (結局、肝心のことは言ってくれないこの男を) あたしは甘やかしちゃいけないって、決めたんだから。 「乱菊もしかしてあれか、胸んとこ開けとんの、男誘ってるんちゃうんか」 「何言ってんの」 「体冷やして、僕に暖めて貰うの待ってんのか?」 「……違……」 伸ばされた手に、体が竦む。 時間が経っても、愛しい手であることに変わりはないから。 だってあたしにはこいつしかいなかったのに。 「松本」 耳に響いたその声を聞いた瞬間、彼女は泣きそうな顔で振り返った。 「てめぇ仕事さぼって何やって……何だ、その顔お前」 「隊長」 あまりに頼りない声音に、呼ばれた日番谷の方が戸惑った。 青碧色の瞳で意図を確かめようとした時、隣にいた男が挨拶を先んじた。 「お久しぶりです、十番隊隊長さん」 「……市丸か」 「すんません、乱菊借りてました」 「三番隊は今暇なのか。俺んトコはそれなりに忙しいんで、松本に用があんなら手短にしてもらいてぇ所だが」 「もう、いいんです隊長。あたし仕事に戻ります」 「珍しいじゃねぇか。どういう風の吹き回しだ」 「いいんです」 言い切るように強く言った彼女は、金髪を靡かせて隊舎に戻った。 後姿を見送りながら、銀髪の背の高い男が呟いた。 「乱菊泣いてもうたかなぁ……」 銀髪の少年は隣の男を軽く睨みつける。 剣呑な視線と低い声音は、見かけを遙かに凌駕して獰猛だ。 「てめえ、何かしやがったのか」 「ん、ちょっとした交流です。いつもやっとる程度の。十番隊隊長さんが怒るようなことは何もしてません」 それじゃ、また遊びに来ます。 爽やかな挨拶で返され、少しは威圧してやろうと思った日番谷は、不満そうにその後ろ姿を見送る羽目になる。 「松本、何泣いてんだ」 「嫌だ隊長。あたし泣いてなんかいないです」 「今はな。蕎麦饅頭くらいで、さっき泣いた烏がってくらいの晴れ晴れとした顔しやがって」 「別に饅頭ばかりのおかげじゃないんですけどねぇ」 戻って茶を入れて待っていたらしい乱菊は、自分の入れた茶で一服から始めていた。 仕事の中断から戻ってまずすることが休憩ってどうなんだ。日番谷はそう思ったが、先の弱気な顔が心に残って、強くは言えなかった。 「じゃあ何だよ」 「隊長の顔見たら、安心しました」 これが、また。 赤面しそうになるくらい、やけに綺麗に笑うから。 それこそ太陽に向かって凛と咲き誇る大輪の花の如く。 日番谷は茶を飲んで動揺を誤魔化した。 松本に見蕩れたなんて誰にも言えない。 少なくとも上司としてあるまじきことだ。 「あー……そう」 「はい!今日はちゃっちゃと仕事やっちゃいますよ!それで飲みに行きましょう!」 「俺はいいよ、檜佐木とか吉良誘ってくりゃいいだろ」 「ノリ悪いなぁ、隊長は相変わらず。でも吉良はいいかも。一緒にギンの悪口言いまくろうかな」 「吉良は駄目だぞ、あいつ酒とギンの悪口の組み合わせでぶっ壊れるらしいから」 「ええ、なんで知ってんですか。あっ、あたし抜かして飲んだんでしょう!」 「茶だけな、茶。第一待ち合わせたわけじゃねぇし。甘味処で阿散井と吉良二人と会ってよ」 「吉良とか阿散井の誘いに乗って、なんであたしには乗ってくんないんですか!」 「だから酒じゃねぇって!」 「第一、何で甘味処とか行ってんですか、隊長、甘いもん好きじゃないくせに」 「それは、あれだ」 「何ですか!」 ず、と茶を啜った後、日番谷は饅頭に手を出した。 一口噛み千切って、甘ぇと少しだけ眉を寄せる。 「お前、好きじゃねぇか、蕎麦饅頭」 「……もしかして、こないだ珍しく補充されてたアレですか」 「そうだよ」 「あたしが買いに行かせなかったのに部屋にあったアレですか」 「だからそうだっつってんだろ!」 なんだか顔が上げ辛かったのだが、少年姿の死神はちら、と視線を上げてみた。 ああ全く、さっきまで泣いた烏が今度は満面の笑顔だよ。 喜びに輝いた瞳の端にはもう涙はなかったから、日番谷は少しだけ安心して、残りの茶を飲み干した。 Fin.
恋次とイヅルは甘味屋デートですか?と書いた私が聞きたい。
Joyce執筆時(2006/5/4) |